「ぼっち」という言葉を、よくネット上で見かけます。
文字通り、一人ぼっちを揶揄する言葉です。
こういう言葉がもてはやされるのは、友達が沢山いて、いつでも予定が詰まっているような、いわゆるリア充(リアル(現実の世界)が充実している状態、またはその様な人物を指すネット用語)たちへの憧れが、自虐的に表現された結果だと思います。
要するに、一人ぼっちは良くないことで、みんなと仲良くしてワイワイやっている方が良い人生だと思っている人が、一定数存在するということになります。
その結果、悪しき多数決の法則により、ぼっち=不幸な人というイメージがついてしまう・・
たしかに、精神的に消耗する人間関係から逃げ続け、ネットの世界だけが生き甲斐になってしまったような人の場合、充実した人間関係に過剰な憧れを抱いてしまうのは理解できます。
しかし、世の中には、本心から一人でいることが好きで、なんの苦痛もなく、豊かに生活している方が実は結構います。
ぼっち=不幸というイメージは間違っている
事実、当院の患者さんの中にも、そういった方々がおり、本当に自然に一人でいることを楽しんでいます。
私から見て、そういう方々は、極めて精神的に成熟している印象を持ちます。
頭が良く、穏やかで、知識も多く、話も面白い。
人と自分を比較して、過剰に不安になることもなく、流行りに流されることもありません。
そして、現実を淡々と受け入れる潔さを持っています。
こういう方々は、別に一人ぼっちなのではありません。
経済的にも、精神的に自立しているので、必要以上に「人と群れなくてもよい」のです。
ぼっちという言葉を日常的に使っている人や、ぼっちを馬鹿にしている人の心の中には、一人ぼっちは恥ずかしいという気持ちがあり、自分たちよりも、友達が沢山いる人の方が充実しているという思い込みがあります。
しかし、残念ながらそれは幻想で、友達や恋人がいなくても、精神的に自立している人の中には、一人でも(むしろ一人の方が)十分幸せだと感じている人はいるわけです。
厳しい言い方ですが、私だってもっと友達が多ければ・・とか、恋人がいれば幸せになれるはずなのに・・・という考えは、問題の原因を他人のせいにした現実逃避と言えるのではないでしょうか。
人とつながりたいと思っているのなら、一度限りの人生なのですから、怖くても面倒でも、人の輪の中に飛び込んでいくべきだと思います。
しかし、本当に一人でいることが好きで、穏やかに生活している人たちに対して、友達が多い方が素晴らしいという子どもじみた論理を、身勝手に押し付けるのは間違いです。
ニュータイプなのかもしれない
私はたまに、やせ我慢ではなく、一人で幸せに生きていけるタイプの人たちは、ある意味、ニュータイプ(新人類)なのかもしれないと思うことがあります。
進化の過程で私たち人間は、集団になり、群れることによって危険を回避してきた歴史があります。
日本には「村八分」という、個人や家族を仲間外れにする罰則がありましたが、孤立することは、それだけ生存戦略上不利だったわけです。
しかし、昔とは違い、現代の日本に身を脅かすような危険など、そうそうありません。
要するに、人と群れることの必要性は、以前より明らかに低くなってきているわけです。
もしかすると、そんな時代に合わせ、群れることなく一人で生きていくことができる、省エネ的な新しい価値観を持つ人たちが現れてきたのかもしれません。